2016年3月12日 朝日新聞デジタル

東日本大震災5年
君に見せたい、私の生きる姿
再婚―いまは暮らしに音がある


■亡き家族4人に再婚を報告

再婚したさちこさん(左)と、亡くなった家族の墓参りに訪れた小島幸久さん=11日、岩手県陸前高田市、白井伸洋撮影
 岩手県陸前高田市の電器店経営、小島(おじま)幸久さん(44)は、家族4人の墓に花を供えた。長女千空(ちひろ)ちゃん(当時7)が祭りのとき、髪につけたヒマワリをイメージして黄色を選んだ。

《5年たちました。さちこと生きていきますので見守っててください》

 かたわらには、キティちゃんの花柄のリュックサック。千空ちゃんの遺品だ。少し黒ずんできたが、出勤かばんとして使い続けている。再婚したさちこさん(37)も手を合わせた。

 5年前、自宅兼店舗を津波で流され、両親と妻紀子さん(同38)、千空ちゃんの4人を亡くした。自宅近くで車の中から家族4人が見つかったと知らされたのは、震災7日目だった。

 百カ日の6月、プレハブ仮設の店を高台で再開した。復興に向かう街で、電気製品の修理やエアコンの取り付けに追われた。あっという間に日が暮れて店を閉める。だが、車で家路につくと家族の顔が浮かび、我に返る。違う。もういないんだ――。そんな日々が続いた。

《仮設の部屋に帰っても、オンがオフにならないっつうか。安らがない。何のために稼いでるんだべなあって》

 震災2年。市の追悼式で遺族代表として、「あなたたちの分まで生き抜く」と誓った。《心が折れて自殺する人もいるけど、俺はそれはしないよ、という言葉でもあった。亡くなった人に失礼に当たると思ってるから》

 さちこさんに会ったのは2014年10月。亡き母の親友らの紹介だった。会食後のドライブ。「家族は心の中では生き続けてる。だから私だけを見てという人とはつきあえない」。正直な思いも打ち明けた。

 昨年10月、さちこさんと再婚した。

 ふたたび始まった家族との暮らし。いまも、ふとしたときに涙が出る。

 トントントントン……。毎朝、台所から食事の準備の音が聞こえる。さちこさんが家族の写真にご飯を供え、手を合わせる前に「チーン」と鳴らす。

《いまは暮らしに音がある。何も変わんねえと思ってきたけど、きょうはちょっと違う感じはしたな。5年つうと、それなりの長さで時が流れたんだ》

 この1月、造成を終えた高台の土地の引き渡しを受けた。新居ができたら、仏壇の前にキティちゃんのリュックも並べようか。そう考え始めている。

 (杉村和将)

■父ちゃん、やっと落ち着いたぞ

 
藤田さん夫妻。父の常雄さんが友親さんに贈った東京五輪の記念銀貨は、大切なコレクションとなった=11日、埼玉県白岡市、越田省吾撮影
 ふるさとの福島県富岡町から約200キロ。農家だった藤田友親(ともちか)さん(65)は埼玉県白岡市の新居に運び込んで間もない仏壇の前で、遺影に語りかけた。

《父ちゃん、やっと落ち着いたぞ》

 5年前の3月11日。電気も水道も止まった町で、心臓を患って入院する父常雄さん(当時88)を急きょ自宅に引き取った。翌日、東京電力福島第一原発の建屋が爆発。町から避難指示が出たが、父の看病のため、妻直美さん(55)と母ミネ子さん(86)と自宅に残った。自宅は建て替えたばかりだった。

 わき水を飲み、夜はろうそくをともした。まだ最低気温が零下になる季節。布団のほか、暖を取るすべがなかった父は16日に息を引き取った。18日、県外から迎えに来た長男、倫生(ともなり)さん(31)の車で妻と母と町を出た。父の遺体は仏壇の前に横たえ、自宅に残していかなければならなかった。

《父ちゃんも牛も、一緒に家を出たかった。父ちゃん、死ぬ前、牛のこと気にしてたな。「競りは延期だな」って。母ちゃんが「後ろ髪引かれる思いだ」って言ってたの忘れらんねぇ》

 遺体は後日、倫生さんが自宅を再訪して引き取り、藤田さんは妻、母と東京都内にある親類の勤め先の社宅を間借りした。アスファルトが覆い、林立するビル群。仕事もなく、3千万円の住宅ローンだけが追いかけてきた。

《まさかスーパーで米を買って食うようになるなんてな。車が走る音聞いて、借金のことばっか考えてた。焼酎の量も増えてな》

 この年の秋、東京都東村山市の郊外に転居した。妻はスーパーで働きだし、母は介護施設に通うようになった。藤田さんもプールに通い始めた。常雄さんの死を震災関連死と認めるよう町に働きかけた。生活に張りが出てきた。

 この間、倫生さんら2人の子どもは結婚。初孫もできた。なかでも、倫生さんが「一緒に住もう」と言ってくれたのはうれしかった。福島県につながる東北道沿いの白岡市に新居を決めた。

 原発20キロ圏の富岡町は全域で避難指示がつづく。旧宅には年に3回、日帰りするだけだ。アルバムなど思い出の品々を持ち出し、家財はほぼ処分した。

 この5年、居場所を探し続けていた。《白岡で畑も作るつもりだけんど、土が硬い。なじんだ土じゃ、ねえんだよなぁ。土づくりからだ》。新たな墓も市内に建てた。近く父の骨を納める。

 (長橋亮文、池田拓哉)

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